激動の会長時代と組織運営の舞台裏
WPAヨルゲン・サンドマン氏独占インタビュー【第2回】

WPAのスポーツディレクター、ヨルゲン・サンドマン氏への独占インタビューの第2回。今回は、氏がWPAの第2代会長に就任した激動の時代を振り返る。財政的に厳しい状況下での組織運営、「ワンマンショー」と自ら語るその実態、そして後任人事の裏側。さらに、かつて日本で起ち上げられたもう一つのプロ団体『JBC』(日本ビリヤード機構)と一体となり、WPA公認のワールドツアーを主催したIBC(国際ビリヤード機構)について、WPAの視点からその関係性と1年を待たずして終焉を迎えた要因などを語っていただいた。
WPA会長時代と組織運営の難しさ
――APBU(アジアポケットビリヤード連盟)がWPAから除名となった件ですが、当時APBUの会長であった涂永輝氏が、WPAの運営、特にイアン・アンダーソン氏のやり方に批判的だったという話も耳にしました。そのあたりで、イアン・アンダーソン氏の側に何か問題があったということは考えられますか?
S:物事がどのように進展するかを理解するためには、歴史を遡ることが重要です。WPAは1987年に設立され、最初の正式な総会が開かれるまでに2年半から3年かかりました。その時の加盟団体はAPBU、EPBF(ヨーロッパポケットビリヤード連盟)、そして北米のBCA(アメリカビリヤード協会)の3つでした。初代会長はドイツ人のホルスト・フォンデンホフ氏でしたが、彼は英語を話さなかったため、私が通訳として彼を補佐していました。
――会長が英語を話せないというのは、国際組織としては大変だったでしょうね。
S:ええ。1992年になると、EPBFがユーロツアーを開始し多忙になったこと、そしてWPA自体の業務量も増えていたことから、フォンデンホフ氏はEPBF会長に専念し、私がWPAの第2代会長に就任しました。当時のWPAは財政的に豊かではありませんでしたが、スポーツを発展させたいという機運はありました。まさに「張り子の虎」のような状態でしたが、ルールや規約の整備、世界選手権の開催など、コミュニケーションを取りながら私がそのほとんどを処理していました。
――いわゆるワンマンショーのような状態だったのでしょうか。
S:もちろん、私がWPAの会長だった時も、イアン・アンダーソンの時も、全てが一人で行われていたわけではありません。WPAでは理事会が開催され、さまざまな議題が話し合われ、決定されていました。そして、議題の内容に応じて、理事たちがその仕事を分担していました。ただし、私の任期中の日々の業務の多くは私が処理しており、その後はイアンが自分の任期中に担当していました。そのような状態は、多くの人が陥りがちな過ちですし私もそうでした。人に任せるよりも自分でやった方が早いと考えてしまうのです。ボランティアで手伝ってくれる人々に過度な要求はできませんから。そういった状況で8年間運営し、私が会長職を退く際に後任を指名しました。それは戦略的な決断でした。

1999年当時のWPA理事メンバー。左から涂永輝氏、荘村徹氏。右から藤間一男氏、イアン・アンダーソン氏、サンドマン氏(写真提供:藤間一男)
――ご自身で後任を指名されたのですね。それはイアン・アンダーソン氏だったのですか?
S:いいえ、私が後任として指名したのはイアン・アンダーソンではなく、涂氏の知人である台湾の実業家(荘村徹氏)でした。彼は非常に裕福で、台北でホテルも経営していましたが、英語は話せませんでした。しかし、彼はWPAの会長職を強く望んでいました。そこで、彼が会長に就任する代わりにWPAに資金を提供し、彼のホテルで理事会などを開催することで経費を節約するという合意をしました。私がWPAを離れた後も組織がより良い状態になるようにと考えたのです。そして、イアン・アンダーソンには副会長として、WPAの実質的な運営を任せました。イアンは長年私と共に仕事をしており、WPAの運営については熟知していましたから、彼なら大丈夫だと考えました。
――なるほど、そういう経緯があったのですね。その後の運営は順調だったのでしょうか。
S:しかし、その合意にもかかわらず、WPAが一夜にして裕福になったわけではありません。そして数年後、台湾の会長からの資金の支払いが滞るようになり、結局彼は2002年に会長職を解かれ、イアン・アンダーソンが会長に就任しました。
――イアン・アンダーソンが会長に就任してからは、どのような変化がありましたか?
S:イアンが会長になった経緯を考えると、私自身、ワンマンショーのような形で運営していましたから、彼が私のやり方を踏襲したとしても不思議ではありません。涂氏もまた、全ての決定を自分で行うタイプの人物です。しかし、彼と私やイアンとの大きな違いは、彼には資金と従業員がいたということです。WPAが喉から手が出るほど欲しかったものです。つまり、私、イアン、涂氏は同じタイプのリーダーですが、涂氏だけが「これをやれ」と指示できる立場にあったのです。私やイアンは、ほとんどのことを自分たちでやるしかありませんでした。
IBCの挑戦と、WPAから見たその評価
――話は少し変わりますが、イアン・アンダーソン氏が会長になった頃に活動していたIBC(国際ビリヤード機構)についてお伺いします。2001年に『東京ナインボール』というビッグイベントをJBCとともに開催したIBCは、翌年に世界ツアーをスタートさせています。これはWPAの公認も受けていたと記憶しています。その経緯について教えていただけますか?
S:ええ、IBCについては知っています。F1に関わっていた人物が立ち上げたものでしたね。確かミスター田中(肇氏)でした。私は当時WCBS(世界キュースポーツ連盟)のWPA代表という立場でしたからイアン・アンダーソンとは当時よく連絡を取り合っていましたから。ミスター田中がIBCで犯した一つの過ち、これは私の意見ですが、彼が選手たちに運営の舵取りをさせてしまったことです。WPAやイアン・アンダーソンではなく、当時の有名選手たちが実権を握っていたように見えました。選手たちは基本的に自分たちの利益を優先しますから、長期的な組織運営には必ずしも最善の方法ではありません。

2002年にスタートしたIBCツアー第1戦の『IBC NANKI Classic』(和歌山県・南紀白浜)
――選手主導の運営が、IBCの長期的な成功を難しくしたとお考えなのですね。
S:そしてもう一つの大きな過ちは、一つのイベントにあまりにも多くの資金を投入しすぎたことです。当時のトーナメントの賞金はもっと少なかった。同じ資金があれば、5つの大会を開催し、それぞれを他のどの大会よりも大きくすることができたはずです。彼はツアーを創設したかったのですから。
――なるほど。
S:彼は間違ったアドバイスを聞いたのかもしれませんし、あるいは何か新しいことを始めるには大きなインパクトが必要だと考えたのかもしれません。いずれにしても、残念ながらIBCが長続きしなかったのは、必ずしもWPAやイアン・アンダーソンの責任ではないと私は考えています。そのコンセプトを聞いた時、「これは長続きしないだろうな」と感じましたが、残念ながらその通りになってしまいました(以下第3回に続く)。