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Chapter 32 翔の作戦

2022.09.10

作/Donato La Bella 文/渡部嵩大 監修/関浩一

第32話

「やるしかない」
翔に諦める気持ちは一切なかった。むしろ、自分の持てる全てを駆使しなければならないこの舞台に興奮しているほどだった。翔は再び目を瞑ると、ネモスとの意思疎通を始めた。
「ネモス、俺に考えがあるんだ。一緒に試してみたい」
「いいだろう、風の子よ。しかし、本番でこんな新しいことに挑戦していいのかい? これまでも私の急降下と合わせて強いショットを生み出してはいたが、さらに高さを2倍にするなど初めてだぞ?」
「もちろん!」
ネモスは翔の隣から飛び立つと、会場の高い天井をすり抜け20メートルの高さまで舞い上がった。翔はブレイクの構えを取り、天を見上げた。
「いけ、ネモス!」
翔がテイクバックを取ると同時にネモスは急降下した。テーブルに当たる直前、ネモスは水平飛行に切り替えた。そして、まさにタップが的球に触れようとする瞬間、ネモスの像がキューと重なった。

手球は目にも止まらぬ速さで①を捉え、翔は意図通りのショットに成功したようだった。ブレイクで的球の半分がポケットされ、残りの的球もトラブルのない配置となっていた。しかし、依然として雫が降らせた雪は深く積もっていた。なにより、このゲームを翔が取ったところで、雫のブレイクから始まる次のゲームを取られたら試合は終わってしまう。5球しか残っていないということは、5回しか翔にチャンスが残されていないということでもあった。

それにも関わらず、翔はネモスに同じショットを繰り返すよう告げた。彼にはまだ考えがあるようだった。雫の敷いた罠を認識していない観客からは、翔が必要以上に強く撞いているように見えていた。龍はテーブルの上の雪の存在に気付いていたが、翔のショットによって特に状況が変化していないところを見ると、やはり心配が勝っていた。一方、明は何かを理解したかのように、微笑みながら試合を見守っていた。
「明さん、なんで翔の心配をしていないんですか?」
「龍、翔は全てのショットで手球を同じ位置に戻していることに気付かないかい? あいつも試合の新しい楽しみ方を覚えたようだな!」

翔は5球全てを同じ場所にポジションするショットで決め、ゲームカウントを6-8とした。次のゲームを取れば雫は翔に勝つことができる。テーブル上の様子を見て、雫は勝利を確信した。相手はなにやら作戦を変えてきたようだが、戦局をひっくり返すには到底及ばない。同じプレーをもう一度繰り返すだけで準決勝に進める。

ベスト8を勝利で終えていたケヴィンは冷静にこの試合を見ていたが、雫とは違い、少しだけ嫌な予感がしていた。これまでジュニアの大会で鷹上翔という選手の戦いぶりを見てきたが、彼の表情から諦めは一切感じられなかった。雫が気付いていない何かがまだあるに違いなかった。

雫は今まで通りのブレイクをすると、これまでのゲームと同じように的球が拡散した。同じ球が同じポケットに向かい、手球も同じところに止まるように見えた。しかし、その刹那、手球が不自然に浮き上がった。その瞬間に翔は微笑み、ケヴィンは翔の隠された意図を理解した。手球は⑥に当たるとサイドポケットに向かってゆっくり転がり、スクラッチした。雫は信じられない様子で、手球のいなくなったテーブルを呆然と眺めた。

1つ前のゲームで翔が強いショットを繰り返したのは、的球をたくさんポケットするためでも、雪を退けるためでもなかった。真の目的は、手球が通った後に乱気流を残すことだった。1回のショットではやがて気流も収まってしまう。そこで、何度も同じ位置から強いショットを繰り返すことにより、乱気流を増幅させたのだった。雫には精霊が生み出した雪は当然見えるが、もともとそこにある空気を利用しただけの気流を目視することはできない。毎回同じプレーを繰り返していたことで、かえって罠にかかりやすい状況を自ら作ってしまっていたのだった。

翔が仕掛けた作戦を龍もようやく理解した。
「翔はこれまで強烈なスピンショットをするためにネモスの力を使ってたけど、攻撃だけじゃなくて防御としても使えるんだ!」
試合中の雫の戦術から学び、翔はあっという間にと新しい作戦を生み出したのだった。

翔は手球を手に取り、雫が残したラックを片付け始めた。依然として雪は残されているため、球が滑らないよう気を付けなければならない。前回転だけを使い、まるで除雪車のように雪を散らしながら⑩を落とし切った。続くゲームはブレイクからマスワリをし、ついに8-8と追いついた。
鷹上翔と滝瀬雫の試合は、ついに最終ゲームを迎えた。

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