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Chapter 39 覚醒

2023.05.17

作/Donato La Bella 文/渡部嵩大 監修/関浩一

第39話

翔の精神状態が揺さぶられた隙をついてケヴィンはさらにゲームを取り、3-5と差を広げた。翔の変化は明らかで、誰もがこのまま試合は終わってしまうのではないかと感じていた。しかし、試合の流れはまだまだ目まぐるしく変わろうとしていた。

翔の戦う様子を一目見届けようという気持ちが龍を会場へと引き連れてきた。彼の表情は曇っていたが、しばらく試合を眺めていると、不思議と元気が少しだけ戻ってきた。そして、幼馴染の姿に励まされたのは彼だけではなかった。観衆の中に龍を見つけると、翔も張り詰めていた気持ちが少しだけほころんだ。ビリヤードを通して、2人は常に固い絆で結ばれていた。言葉を介さなくても、「お前は1人じゃない」という龍からのメッセージはしっかりと翔に届いていた。

2人の成長を常に見守ってきた明にとって、翔の心境の変化に気が付くのは造作もなかった。
「ああ、素晴らしい。これこそが翔と龍の強さだ」
隣では雫が、微笑ましいような、少し困ったような表情で明に話しかけた。
「ケヴィンにとっては少し残念かもしれないけど、まだまだ試合は終わっていないようね!」

龍の存在によって目を覚ました翔は、再びゾーンに入った。風のエレメントを司り、テーブルを渦巻く空気の流れを読むと、復活を予感させるかのようにあっという間にマスワリをして見せた。
「さすがは翔君ですね! そう簡単に負けるはずがないのはこれまでの試合からも明らかです!」
まるで自分のことかのように、太郎は誇らしげに喜んだ。すみれもほっと胸を撫でおろしながら翔を見守っていた。
「まったく、あいつはいつも人に心配ばっかりかけるんだから!」

4-5と差を詰められたケヴィンは、翔が一筋縄で倒せる相手ではないことを悟り、作戦を変えることにした。今度のラックではセーフティは使わず、そのままマスワリをした。例え翔が調子を取り戻そうとも、既に手に入れたリードさえ守れば勝てるという算段だった。案の定、翔は再びマスワリをして5-6とケヴィンを追いかけた。ケヴィンは焦ることなく次のブレイクに入ろうとした時、ドールが自分ではなく、翔の様子を気にかけていることに気が付いた。ケヴィンは尋ねた。

「ドール、あの青年のどこに興味を惹かれるんだい?」
ドールは質問には答えず、ただ翔の座っている椅子へと向かう。翔は一層集中力を高めるために目を閉じて深呼吸をしていた。ドールは翔の足元まで来ると、翔が発する流れを感じ取るかのように、深く息を吸った。満足そうに眼を開くと、翔の注意を弾くためにドールは優しく唸った。翔は目の前の熊の存在に気が付いても驚く素振りはなく、ドールの目を覗き込んだ。ドールもまた、翔の中にある何かを見つめるように、ただ静かに目を開いていた。

すると、会場の中を突然、涼しい風が通り抜けた。微笑む翔の背後から吹き込んだ空気の流れに触れ、ドールは心地良さそうに首を持ち上げた。慈愛に満ちたドールの表情を目にして、ケヴィンは何かを悟った。
「……なるほど。そういうことなのか、ドール」

ブレイクをしたケヴィンは配置に問題がないにも関わらず、次のショットでいきなりセーフティを選択した。当初の作戦に戻したのだろう、と多くの観客は思った。ジャンプショットでも、クッションを使ってもどうにもならないような強烈なセーフティだった。

しかし、翔は穏やかだった。ただ、目の前の状況に集中していた。瞑想するように、彼は目を閉じた。
「風よ、俺に力を貸してくれ。俺が進むべき道を教えてくれ」
翔は風の精霊に呼びかけた。甲高い鳴き声でネモスは呼びかけに応えた。再び翔が目を開くと、手球の道筋が水の流れのように浮かび上がってきた。
「ありがとう、ネモス。早速だけど、舞い上がる時だ!」
翔はジャンプキューを的球に向かってではなく、クッションに向って構えた。ネモスが運ぶ風に乗せてキューを振るうと、的球はやや浮いた状態でクッションに入り、高く跳ね上がった。そして着地すると、前回転によって真っ直ぐ的球へと向かった。的球がポケットに入ると同時に、会場からは拍手が沸き起こった。

そのまま、翔はゲームカウントを6-6とした。

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