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Chapter2 風の翔(2)

2020.03.06
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作/Donato La Bella 文/渡部嵩大 監修/関浩一

第2話

試合を終えた翔は、会場を歩き回りながら目を輝かせていた。田舎で生まれ育ち、ほとんど都会に出てきたことのない彼には、様々なものが珍しく見えた。なかでも大きなディスプレイのついた自動販売機が気に召したようで、
「わあーなんだこれ? 東京は近未来だな!」
とはしゃぎながら、タッチパネルを連打していた。
「むむ、おすすめだと? 君とは初めて会うのになんで俺の大好きな飲み物を知ってるんだ!」
いたずらに何本もジュースを買う彼の姿を、太郎とその友人が見ていた。
「あの伝説の選手の息子、プレーはすごかったけどなんだか抜けてるなあ」
「間違いありません……彼は天然であります!」

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翔の次の試合がアナウンスされると、太郎の解説は相手の選手にも及んだ。
「相手の選手は木村大介くんです。この大会にはもう何度も出場しています。19歳なので、今年でジュニアは卒業ですね」
この大会で、木村は名前の通った実力者だった。身長が高い上に筋肉質で、見るからに強そうな姿は一部からボスとも呼ばれていた。翔が本当に強いのかを見たい人も集まったことで、観戦者は初戦よりもかなり増えていた。

試合は当然のように木村のブレイクから始まると、翔にターンを譲ることなく、立て続けに3連続でマスワリをした。そこに翔の立ち入る隙はなかった。

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ところが、木村のあまりに完璧な球運びに静まりかえってしまった観客とは対照的に、翔はその日一番の高揚感に満たされていた。武者震いを催すほどであった。彼は、自分がついにこのレベルにまで到達したことを喜んでいたのである。

次のブレイクのためにキューを変えに戻った木村は、ふと翔と目が合った。そして驚いた。木村は今、ジュニアとしてこの上ないプレーを見せている自信があった。にもかかわらず、相手は動じるどころか楽しんでいた。それは、ジュニアとして確かな実力を持っていた彼にとって、ほとんどない経験だった。そして、この場面での動揺は、選手として避けるべきことであった。

俺の力を見せつけてやる、と木村は勢い込んだ。

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木村が放った、この試合最も力のこもったブレイクは、手球が真っ直ぐポケットへと向かい、不幸にもスクラッチとなった。パワーを持たせつつも、安定したブレイクをこれまで心がけていた彼にとって、これは看過できないミスだった。
ようやく翔の番が回ってきた。長い待ち時間だったが、心と体は準備万端だった。不利な状況の中でも、観客は翔のプレーを楽しみに待っていた。椅子から立ち上がると、翔は静かに気合を入れた。
「ショータイムだぜ!」

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「すばらしい、完璧です!」
翔のプレーを観ながら太郎は興奮気味に言った。

「ショットの難易度に関係なく、体が次へ、次へと本能的に動いているようです。試合中は普通、緊張して色々なことを考えてしまうものですが、今の翔くんは相手のことすら忘れ、目の前のテーブルだけを見ているようです。まさに直感と集中力の極致ですね!」

無心にプレーを続ける翔に対して、木村は思い悩んでいた。
「こいつはヤベェ、まさかこの俺様が負けるのか? いや、チャンスは必ずやってくる。落ち着け、俺!」

だが、集中力が高まった翔は、風のエレメントを自由自在に使いこなし始めていた。球の周りを渦巻く空気の流れが彼の目には映っていた。鷹が瞬時に上昇気流を見つけ、空高く舞い上がるかのように、必要な回転を見極め、自然に実践することができた。ゾーンに入った彼は、とどまるところを知らなかった。

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4つのエレメント、風、火、地、水は、ビリヤードにおいてそれぞれスピン、パワー、セーフティ、コントロールに相当する。ビリヤードをたしなむ者であれば、誰もがこれらのテクニックをある程度使うことができる。得意不得意はあれ、弱点を克服するためにはどれも必要だと思うのが当然だ。熟練の選手でも、難しい場面ではどのような選択が最適かをじっくり考える。

しかし、翔のようにエレメントを習得している者は、考え方が異なる。彼らはほぼ無意識に得意なプレーを選ぶ。他の選択肢の方が本来安全だったとしても、その事実は彼らには通用しない。本能に従って、難しいショットをあっさりと成功させる。例え大会のような緊張する場面でも、習得しているショットは迷いなく敢行することができた。

翔はビリヤードを始めてまもない頃から、ひたすら手球を回転させて遊んでいた。初めは到底操れるものではなかったが、彼は諦めることなくそのスタイルを貫いた。スピンで球を動かすことが彼の性に合っていた。そして、長い間植え付けられたその感覚は、いつしか風のエレメントを培うまでになっていたのである。

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翔と木村のゲームは面白い局面を迎えていた。翔のターンだったが、的球やポケットが邪魔をして、どのように⑥にポジションするかが悩ましい配置となっていた。様々なショットが考えられ、重要な場面であることは誰の目にも明らかだった。

翔にしては珍しく、いつもよりも時間を使って、タップに入念にチョークを塗っていた。ここは難しい場面であり、勢いに乗っているとは言え、簡単にショットが決まらなくとも何らおかしくはなかった。しかし、実際には翔は、前のプレーで手球が止まった次の瞬間、すでにどうするかを決心していた。強力なスピンが求められることをわかっていた彼は、今一度手球のラインをイメージして、気力を奮い立たせていた。

キューを構えた彼は、わずかに口角を上げると、手球の右側いっぱいを強く撞いた。真っ直ぐに⑤がポケットされると、手球は回転により、クッションで急激に減速した。そして、強力な回転を保ったままゆるゆると転がった手球は、今度は反対側のクッションで加速し、寸分の狂いなく⑥の後ろについた。

すでに翔の見事なプレーをたくさん観ていた人々だったが、悩ましい局面を華麗に切り抜ける姿には、今一度感服せざるを得なかった。闘争心を燃やしていた木村も、おのずと手をたたいていた。好きなショットを決めることができた喜びに、翔も今回ばかりは顔がほころんだ。

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「なんだ今の、手球が知らない動きをしたぞ?」と太郎の友人が不可解な様子でいると、太郎は自分のノートに図を描いて解説を始めた。
「あれは『リボイス』と呼ばれるショットです。このような場面(下図)がわかりやすいでしょう。⑨に真っ直ぐポジションするには、手球を戻してこなければならない訳ですが、普通の順ヒネリだと、手球を出せるスペースが狭くなってしまいます。できれば⑨の手前側にポジションしたいですよね。そこで、逆に左を強く撞くのがリボイスです。

最初のクッションに入ったあと十分な回転が残っていれば、手球はこのような経路を描きます。これならば楽に⑨がポケットできます。キュー切れが必要なので簡単ではありませんが、いかにも翔くんが好きそうなショットですね。それにしてもあの場面であんなに凄いリボイスを思いついて、完璧に決めてしまうとは……」

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順ヒネリ

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リボイス

その後形勢が変わることはなく、結局翔が5-3で勝利を収めた。翔にターンが回ってからはあっという間のことだった。相手との挨拶を済ませた彼は、
「よっしゃ!」
と喜びの声を上げた。普段は無邪気でありながら、ひとたびキューを握ると圧巻のプレーを見せる彼の姿に、会場の皆が惹かれていた。

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